もうお気づきと思いますが、今回は「
いかりや長介」さんのお話です。ちょうど40代の方々周知の事実かと思いますが、「ザ・ドリフターズ」は、バンドであり、当然メンバー全員がバンドメンバーです。
加藤茶はジャズをルーツに持つドラマーだし(スティックの握り方はレギュラーグリップやし・・・)、高木ブーはハワイアンを得意とするウクレレプレイヤーである。(これはテレビでも何度か弾いているので、ご覧になったかたも多いでしょう。)そうです!そしていかりや長介は、
ベーシストなのです。
ちょっと昔、ビールの宣伝で、エレクトリック・アップライト・ベースを気持ち良さそうに演奏する姿があった。本人もこれをいたく気に入っていたようで、その写真が遺影に使われた。(これは、本当に渋かった・・)いかりや長介のピッキングスタイルは右手の親指の腹を使ってボンボンと弦をはじくというモノだが、一説によるとそのスタイルから発展させて「日本人ベーシストで初めてスラップ奏法をやった男」なのだという。
これは、デマです。ただし、日本発でいうなら、
日本で初めてフェンダー製のエレキベースを使用したベーシストであることは、有名。
本名、碇矢長一(いかりやちょういち)。
1931年11月1日、東京都に生まれる。
父親は築地魚河岸の仲売人をやっており、業平橋のたもと、駒形で育った東京の下町っ子。 戦後、職場での音楽サークル活動がキッカケで、ハワイアン・バンドに入る。(バンド結成の理由は、モテたいためw)
当時、ロカビリーが流行し、 ちょうどそのハワイアン・バンドが解散したこともあって、ロック・バンドの「
クレイジー・ウエスト」にベーシストとして加入 (この「クレイジー・ウエスト」は後に、加藤茶が一人前のドラマーとしてスタートしたバンドであり、仲本工事も荒井注も、それぞれ時期が異なるが在籍したバンドでもある)。
1960年、に桜井輝夫をリーダーとして「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」結成。
1961年にいかりや長介をリーダーに「いかりや長介とザ・ドリフターズ」に。 当時のメンバーはいかりや長介、加藤茶、小野やすし、猪熊虎五郎、飯塚文男、ジャイアント吉田。
1964年9月にいかりやと加藤以外の4人が脱退して「ドンキーカルテット」を結成。 そこでいかりやは、新生ドリフターズを結成するべく、ヘッドハンティングを開始する。
そしてクレイジー・ウエストから荒井注を、シャドウズというバンドから高木ブーを、そしてこの高木ブーと学生時代のバンド仲間だった仲本工事を加入させる (仲本工事を加入させる際には、仲本の家族に直接会いに行き「必ず食えるようになるまで面倒を見るのでよろしくお願いします」と説得したという)。 こうして誕生したのが、お馴染み「ザ・ドリフターズ」だ。 この後、ドリフターズは、有名ジャズ喫茶で、着々と笑いの基盤をつくる他、 「ホイホイミュージックスクール」というテレビ番組で歌手のタマゴのバックバンドをして過ごしていた。
伝説で、言うならば、なんとあの「ビートルズ」の前座を務めたバンドというのは、あまりに有名な話。そのときの加藤茶談
「最初は好きなようにやってくれって言われたんだよ。で、何をしようかって話をしてると、『30分くらいでお願いします』って言って来たんだ。 じゃあわかったと。で、またそれから数日後に『15分でやって下さい』って言われた。 あれ~?短くなっていくなぁって思ってると、またその数日後には『5分でやってくれ』って言われてさ。もう、5分って言われてもねぇ(笑)。 で、結局当日にはもっと短くしろって言われたんだよ」。
結局仲本のヴォーカルで『のっぽのサリー』(Long Tall Sally)を演奏した.
最後に、「長さん」のお言葉を・・・
「ドリフはよく言えばユニーク、悪くいうとデタラメ。ほかに、類似のグループがなかった。 だから、存在出来たんです。強いて言えば、クレージーキャッツですかね。 クレージーが大スターになって、目の前で見せてくれたので、半分でも4分の1でもいいから、追い付けたらなあと思いましたよ。 でも、ドリフはテレビがなかったら、プロにはなりませんでしたよ。 だって、全員がミュージシャン出身というけど、楽器がうまいヤツはいませんよ。 高木ブーがウクレレでブレイクっていっても、何もしゃべんなかったブーが、まさかというか音を鳴らしているから受けているだけでね。 僕ら、何にもできないんですよ。コントだって、うまいねえなんていわれたことは1度もありませんからね。 よく見てみると、難しいことは全然やっていませんから。本当にそうなんですよ」。
なんて・・・一度テレビでドリフターズの演奏を見たことがありますが、確かに難しいことはやってませんが、下手くそでは決してないのを記憶しています。(そのときは加藤茶のドラムのうまさにびっくりしていたが・・・w)
そして、2004年 3月20日 没(満72歳)
そのときの加藤茶の弔辞・・・
長さん…。随分急いで向こうに行っちゃったんだね。アンタ、最後の最後に嘘ついたよなぁ。去年の12月に『大爆笑』のオープニング撮るときに久しぶりに会って、「40周年の記念で『全員集合』と『大爆笑』、この2本撮りたいね」って。長さん「いいね」って、「やろうよ」って、そういったよね。うちのメンバー4人もその気になってたんだよね。だけどその約束を守れないうちに逝っちゃったね。 40年間一生懸命、一生懸命走ってきて絶対に妥協を許さない長さんだったよな。でも40年間本当に気を抜かないで一生懸命やってきたんだと思う。本当にご苦労さん。これから俺たち4人でドリフターズまだやっていくよ。アンタが残した財産だからね。 荒井注さんが亡くなった時、長さん言ってたよな。俺も、もうじきそっちに行くから、一緒に酒飲もうって。本当にそんな日が来てしまったな。でもちょっと早すぎたんじゃないか? もう少し我慢してほしかったな。まぁ2人してつもる話もあるだろうけど、あまり深酒しないように。 それから、いきなりそっちから「全員集合!」といわれても俺たち4人は集まれないからね。たぶんそのうち本当に「全員集合」になるかもしれないけど、その時はやっぱりまた向こうでコントをやろうよ。 40年間本当にありがとう。そしてご苦労さんでした。何も心配なくゆっくり休んでちょうだい。さようなら。
なんか、泣けてきますね・・・

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